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Project Eagle 属するryuruの日々を書きつづった日記。 思ったこと、感じたことを記しておきたい。
            
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神羅万象チョコキャラクターのテッシンが好きだ。
人生で最高のツボキャラと出逢って、もうかれこれ4年以上になるだろう。
テッシンの系統の少年キャラクターも相変わらず好きだ。

pixivやサイト検索でテッシンの絵を見つけると、この上ない喜びを感じる。
マイナーなポジションである彼を描いてくれる人がいることを嬉しく思う。
だが筋肉少年というスタンスのおかげで、BL要素やゲイ要素が絡むことが多い。
しかしおれは、不思議とそれらに嫌悪感を感じない。
それがもし3次元の話だったら、きっと嫌悪感を抱くであろう。
だが、2次元だと違うのだ。なぜ2次元は受け入れられるのか。


そもそもなぜテッシンがツボキャラなのだろうか。
実際に筋肉ムキムキの少年がいたら、きっと引くであろう。
性格も無駄に熱そうである。きっと友達とにすると疲れるタイプだ。
2次元だから良いのだ。なぜ2次元だと良いのか?

「格好いいから」

つまりはこの一言に尽きる。
少年でありながら強い力を持つところが格好いい。
だが3次元だとこれは当てはまらない。
3次元ではあり得ないのではなかろうか。

ありえないシチュエーションであるからこそ、格好いいと感じるのだろうか。
子供の頃は身体は細く弱く、ほとんど家で遊ぶような性格だった。
だけどいつも、もっと力強く、健康で元気な生活を送りたいと願っていた。
そんな時を長く過ごしすぎたせいで、気持ちが集約したのかもしれない。

元気な主人公キャラにと友達になりたくてもなれない気弱なキャラ。
おれが置かれていたのは、ずっとそんなスタンスだった。いまでもそうだ。
だからこそ主人公のような健気さがほしい、そういうポジションが格好いいと憧れた。
筋肉のついた逞しい身体、元気でまっすぐな瞳、何にも負けない心の強さ。
ありえないけれど、もし自分がそんな少年だったなら。
非現実のアニメの世界の中を、自由に動き回れる理想の人物。
そんな空想のキャラが具現化したものが、テッシンと同じだったのかもしれない。


2次元のBL等にあまり嫌悪感を抱かないのはなぜだろうか。
3次元はノーサンキューなのだが、ネタとしては割と面白い。
ネタとしての文章も、ネット上では浸透している。

男という身体の構造や気持ちを理解しているからだろうか。
逆に女性の身体をよく知らないが故か、2次でも3次でも
いたって普通なSEXシーンの描画のほうが恥ずかしい。
おれは女性の身体というものに過剰意識を持っているようだ。
改めて考えると、そんな気がしないでもない。
女性に触るのは勇気がいる。男同士なら気に留めることもない。

もちろんイラストや小説は健全モノのほうが良いに決まってる。
しかし、自分にゲイの要素があるとは思っていないが、
2次元の「格好いい」者に対するシチュエーションは
ある種の理想系であり、あり得ないことへの憧れである気もする。
陵辱系というものが嫌いではない一面があることも否定できない。

それらはもしかしたら、おれの心の中にある陰の部分なのかもしれない。
だから彼らがどうにかなろうと、それはそれで愉しんで観ていられるのだろう。
おれはテッシンのようになりたい。だけどテッシンがどうにかなっても構わない。
そしてテッシンに限ったことではない。少年キャラ、獣人キャラ、逆毛キャラ。
いずれにしても半分自分を重ね合わせた複雑な空想。あくまで2次元の中の話。

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六本木ヒルズに工芸大の芸術学部卒業制作展を観に行ってきた。
展示会で卒業生たちが楽しそうに、そして最後のイベントを遂げるその顔に
あの頃の自分たちも同じように輝いていたことを思い出した。

学部や方向性は違えど、同じ工芸大という場所で時を過ごしてきたこと
それがおれたちにとってのかけがえのないつながり。

夕飯を一緒に食べて、いつものように屈託のない話をする。
彼らは妹と同い年、つまり4つ下であるということも忘れて。
一緒に大学生活を過ごした時間は一度もなかったというのに。

だがtwitterやmixiでつながっているおかげもあって、
彼らの話題にどんどんついていける。
ソーシャルネットツールは、こうした間柄で特に役立つモノなのだ。
近い関係でお互いを報告しあうためのモノじゃない。


近い関係であればこそ、そういったツールに頼らずに交流したい。
おれたちはこれから、それぞれが離れゆく運命にある。
それは恐れていても、きっと遠くない時期に訪れるだろう。

今の時間をもっと大切にしたいと思うなら、つながっているだけで安心せずに、
接触という時間を積極的に作っていかなければならないんだと思った。


先日は突然ながらも、大学の友達からの飲みの誘いの連絡が来た。
ツールで連絡を取り合わないからこそ、話したいことがたくさんある。
実際に会って、何気ない日常でもいい、愚痴でもいい、言い合うこと。
これが本来あるべき友情の形なのかもしれないと、強く感じている。
自分では誰かのために生きているような気がしていても、
本当は誰かの都合のいいように利用されているんじゃないかと思うことがある。

誰かを変える力があって、誰かのために生きること、できることがある。
そう思えることは素晴らしいことなんだけど、違う方向へ歩き出す人間を見送ると淋しくなる。
彼等は確かに変わることができた。これからは手助けしなくても、ひとりで飛べるだろう。
でも、結局その人間にとって、オレは都合のいい存在でしかなかったんだろうか。


誰かの助けになるように生きるのがキライなわけではない。
でもその思いの根本にあるのは、誰かのためにと信じ続けて行動していないと、
相手に嫌われたり、飽きられたりするような気がして怖いからだ。

オレは自分にいつも言い聞かせている強い意志を持つような、強き生物ではなく、
本当は自分に顔を向けて欲しくて、誰かに構って欲しいただの淋しがり屋でしかない。


誰かのためになればと思って、生きていくことがつらいわけでも、やめたいわけでもない。
ただ反面、自分のために生きてくれる人がいない気がすることを淋しいと感じる。
もしかしたら、自分が鈍感すぎて気づいていないだけかもしれないが、
そう思ってしまわざるを得ない自分の心の狭さが、弱さであり嫌いな部分だ。


結局こうして考えても、どうしたいのか、どうしてほしいのかも分からないから、
今日も鏡を通した自分に、自分のために生きろと言い聞かせ、答えを探して夢に逃げる。

エレクトーンを弾く時、いつも同じテンポの曲のはずなのに、
スピードが速くて身体がついていかないときがある。
もちろんその逆も然りで、速いと思っていテンポが意外と遅くて拍子抜けすることもある。

体調の変化や、弾き始めるまでに何をしていたかによっても変わるんだろうけれど、
ここまで時間の速さの違いを感じると、自分自身の時間の流れというものを実感する。


最近は正念場のため、遊ぶ時間を全て切り捨てているからか、
自分自身の時間の流れがゆっくり過ぎていると感じている。
それはすなわち、あっという間に時間が過ぎていくことを意味していて、
自分の感覚ではいつもと同じ時間しか過ごしていないつもりなのに、
実際の時間はそれ以上の速さで動いていたということだ。


昔から、こんなことを薄々感じてはいたんだ。
だからオレは、常に何かを急いでいるんだろう。
時間を追ったり、時間に追われるのではなく、時間を待つために。

それでもやはり、できることなら、もう戻らない時間を嘆いて悲しみたくはない。
大切なのは速さについていくことではなく、どう過ごすかだということは分かっている。

ジムに向かう道で通りかかる近所のT字路には、いつも花束が手向けられている。
そこにはバイクとバスの衝突事故の目撃者を呼びかける看板が立っていて、
事故が起きた日は去年の8月だということを伝えている。

こんな何の変哲もない小さな交差点なのに、そんな大事故が起きたとは思えないが、
それがあったことは確かめずとも真実で、いくつもの花束は毎週新しいものになっている。

非常に近い時期に、それもこんなに普通の場所で亡くなった人がいたと思うと、
生と死を分けるものが何であるかということを、毎回考えてしまう。
偶然か、運か、それとも運命だろうか。


もしかしたらオレの見るはずだった夢は、いま君が見ているのかもしれない。
君の分まで生きるよ、という義理もないし、そんな自信もないけれど、
この場所で旅立った人間がいるということは、決して忘れることはないだろう。
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